結成40周年にあたって
①団結の源泉=反合・運転保安闘争
①団結の源泉=反合・運転保安闘争
反合・運転保安闘争路線とは
動労千葉は、反合理化・運転保安確立闘争路線の下に団結してきた組合だ。動労千葉は1972年に起きた船橋事故をきっかけにして闘う労働組合に生まれ変わった。
反合・運転保安闘争路線とは、鉄道事故を労働組合の最も重要な正面課題・闘争課題として位置づける立場を鮮明にしたということだ。
事故が起きると「この事故は合理化によって引き起こされたものだ」とよく言われる。それはある意味、誰もが言ってきたことだ。でも、本当に、真剣にそう考えてきたのか。そうだとするなら一番の闘争課題にならなければいけないはずだ。重大事故が起きれば、乗員・乗客の生命が失われる。そうでなくとも、乗務員は責任を問われ、処分され、時には逮捕される。
「事故」を労働組合の正面課題に
しかし、誰も「事故」という問題を労働組合の正面課題にすることができなかったのが現実だ。なぜか? 多くの場合、事故は労働者のちょっとしたミスをきっかけに起きる。会社もそれを攻撃し、マスコミも攻撃する。しかも、鉄道事故の現場は深刻で、小さな事故でも何万人という乗客に影響を与える。だから、声を大にして闘いにすることができず、せいぜい情状酌量を求めるだけであった。
こんな状態だから、日々の合理化攻撃に対しても積極的に対抗することはできず、そのほとんどを「仕方がない現実」として受け入れ続けてきたのが、日本の労働組合の歴史であった。こうした関係をひっくり返したのが動労千葉の反合・運転保安闘争であった。
1972年 船橋事故
動労千葉は、反合理化・運転保安確立闘争路線の下に団結してきた組合だ。動労千葉は1972年に起きた船橋事故をきっかけにして闘う労働組合に生まれ変わった。
反合・運転保安闘争路線とは、鉄道事故を労働組合の最も重要な正面課題・闘争課題として位置づける立場を鮮明にしたということだ。
事故が起きると「この事故は合理化によって引き起こされたものだ」とよく言われる。それはある意味、誰もが言ってきたことだ。でも、本当に、真剣にそう考えてきたのか。そうだとするなら一番の闘争課題にならなければいけないはずだ。重大事故が起きれば、乗員・乗客の生命が失われる。そうでなくとも、乗務員は責任を問われ、処分され、時には逮捕される。
「事故」を労働組合の正面課題に
しかし、誰も「事故」という問題を労働組合の正面課題にすることができなかったのが現実だ。なぜか? 多くの場合、事故は労働者のちょっとしたミスをきっかけに起きる。会社もそれを攻撃し、マスコミも攻撃する。しかも、鉄道事故の現場は深刻で、小さな事故でも何万人という乗客に影響を与える。だから、声を大にして闘いにすることができず、せいぜい情状酌量を求めるだけであった。
こんな状態だから、日々の合理化攻撃に対しても積極的に対抗することはできず、そのほとんどを「仕方がない現実」として受け入れ続けてきたのが、日本の労働組合の歴史であった。こうした関係をひっくり返したのが動労千葉の反合・運転保安闘争であった。
1972年 船橋事故
現場から闘いへ!
こうした状況の中、事故直後から現場が地本に要求し、実際の闘いに突入してしまう。まず闘われたのは、首都圏の列車運行がガタガタになるような25日間に及ぶ強力順法闘争であった。もちろん世間からの批判もあった。
しかし、こうした事態が起きてはじめて、マスコミも「一体国鉄の職場で何が起きているのか」と事故の背景について真剣に調査し、報道することになった。国鉄当局も自らの非を隠すことができなくなった。闘ったからこそ、安全軽視の現実をすべて明るみに出せたのだ。そして当該運転士を守り、職場復帰をかちとった。これが船橋事故闘争である。
それ以上に最大の成果だったのは、この闘いを通して組合員の意識が一変したことだった。「こういう闘いがやりたかったんだ」。船橋事故闘争は組合員みんながそういうふうに感じる闘いになり、その後もずっと続く組合員の団結が形成された。その翌年・73年の大会で労使協調派執行部を退任に追い込み、闘う執行部が樹立されたのである。ここから動労千葉は始まった。
攻めの反合理化闘争
その闘いは直ちに発展させられた。当時は高度経済成長期。千葉も急激に人口が増え、輸送量の増大に対して地上設備の強化が追いつかない。線路がボロボロ・ガタガタになっていく状態なのに、労働組合としてそれに対抗する有効な手立てがなかなか見いだせない。こんな状態だった。
闘う執行部を確立して動労千葉が始めたのが「線路闘争」だった。管内の線路を全部調査し、危険箇所を対象にして「組合徐行」を指示したのである。その行動による千葉管内の列車の遅れは1日約3千分であった。
動労千葉は、線路設備等の抜本的な改善が済むまで、その遅れをダイヤに組み込めと要求し、それを当局に認めさせた。当局も「不安全で良い」と言えない以上、安全問題は最大のアキレス腱だ。こうしてダイ改のたびに労働条件が改善される状況を生み出したのである。この闘いを通して実現したのは「受け身の反合闘争」から「攻めの反合闘争」への転換であった。
東中野事故との闘い
こうした状況の中、事故直後から現場が地本に要求し、実際の闘いに突入してしまう。まず闘われたのは、首都圏の列車運行がガタガタになるような25日間に及ぶ強力順法闘争であった。もちろん世間からの批判もあった。
しかし、こうした事態が起きてはじめて、マスコミも「一体国鉄の職場で何が起きているのか」と事故の背景について真剣に調査し、報道することになった。国鉄当局も自らの非を隠すことができなくなった。闘ったからこそ、安全軽視の現実をすべて明るみに出せたのだ。そして当該運転士を守り、職場復帰をかちとった。これが船橋事故闘争である。
それ以上に最大の成果だったのは、この闘いを通して組合員の意識が一変したことだった。「こういう闘いがやりたかったんだ」。船橋事故闘争は組合員みんながそういうふうに感じる闘いになり、その後もずっと続く組合員の団結が形成された。その翌年・73年の大会で労使協調派執行部を退任に追い込み、闘う執行部が樹立されたのである。ここから動労千葉は始まった。
攻めの反合理化闘争
その闘いは直ちに発展させられた。当時は高度経済成長期。千葉も急激に人口が増え、輸送量の増大に対して地上設備の強化が追いつかない。線路がボロボロ・ガタガタになっていく状態なのに、労働組合としてそれに対抗する有効な手立てがなかなか見いだせない。こんな状態だった。
闘う執行部を確立して動労千葉が始めたのが「線路闘争」だった。管内の線路を全部調査し、危険箇所を対象にして「組合徐行」を指示したのである。その行動による千葉管内の列車の遅れは1日約3千分であった。
動労千葉は、線路設備等の抜本的な改善が済むまで、その遅れをダイヤに組み込めと要求し、それを当局に認めさせた。当局も「不安全で良い」と言えない以上、安全問題は最大のアキレス腱だ。こうしてダイ改のたびに労働条件が改善される状況を生み出したのである。この闘いを通して実現したのは「受け身の反合闘争」から「攻めの反合闘争」への転換であった。
東中野事故との闘い
その後の闘いについてもいくつか触れておきたい。
国鉄が民営化されてJRになった翌年の1988年12月5日、東中野で総武緩行線が追突し、運転士と乗客2人の尊い生命が奪われる重大事故が起きた。
事故原因は、その4日前に実施されたダイ改にあった。千葉―三鷹間の運転時分を3分40秒短縮し、さらに600㌔余り増発するダイヤが組まれたのである。しかも、3分40秒短縮するために、千葉支社は「輸送混乱時は停止信号を越えて列車を進めろ」という指示文書まで出し、津田沼運転区(現習志野運輸区)では、その指導文書が実際に運転士に配布されていた。事故当日も列車は遅れて運行されており、亡くなった平野運転士はその指示文書どおりに運転して事故を起こしてしまったと考えられる。
それは、運転士からいっさいの余裕を奪ってしまう以外には、ほとんど意味のないスピードアップだった。千葉―三鷹間を緩行線に乗り続けても短縮時間はわずか3分40秒に過ぎない。
それを「1分の短縮は1億円の宣伝効果」だと言って強行したのだ。千葉支社・河野車務課長は「運転士に余裕がないというが、俺はメシなんか3分もあれば食える」と言い放った。それによって生命が奪われたのだ。
動労千葉はこうしたことを徹底的に追及してストライキにたちあがり、次のダイ改で3分40秒短縮を撤回させた。
JR体制下での労働組合の変質
JRになってからの最大の問題は、労使一体化のもとで、労働組合が逆に事故を起こした労働者を攻撃するようになったことである。それを典型的に示したのが東中野事故と、1997年の大月事故のときの対応であった。
東中野事故の際、東労組は、自らの組合員の生命が奪われているというのに何もしなかった。事故当日出した指示文書では、「死亡されたお客さまに心から哀悼の意を表します」とは書いても、自らの組合員には全く触れず、「社会的責任を自覚し、会社とともに事故撲滅に向けて最大の努力をしていく」と言い、さらには「事故原因は究明中であり、ダイヤ改正が直接の原因ではありません」と述べて必死に会社を擁護した。
大月駅事故は、100㌔で通過中の特急列車に入換列車が突っ込んでしまった重大事故だったが、その対応はもっと酷かった。
運転士はその場で逮捕されている。しかし東労組は「第1の原因は信号機の見間違え」と直ちに表明し、当該運転士の裁判に弁護士すらつけなかったのだ。しかし、本当の原因は違った。
その点について、当時朝日新聞が次のように書いている。「JRの指導体制に背筋が凍る思いだ。検察官が次々と明らかにする事実に息をのみ、事故現場が頭をよぎり、身震いした。彼は見習い期間中の研修で入換作業をやっただけ。2年6ヵ月ぶりの作業にすっかり手順を忘れていた。『どうしよう』。運転席についていよいよ慌てた。ろうばいしている姿を車内の清掃員が見ている。事故は自然の流れだった」と。
しかし組合はこうした点を追及しようともしなかったのだ。
尼崎事故、安全運転闘争
05年には尼崎事故が起きている。107名の乗員・乗客の生命が奪われた日本の鉄道事故史上最悪レベルの事故であった。原因は「日勤教育」によって運転士が精神的にギリギリまで追いつめられていたことにあった。そして、車両の軽量化等がこの事故をあれほど悲惨なものにしたのだ。あの時は誰もがJR西日本を批判した。でも、その恐るべき現実に対し、職場から闘いを組織した組合は一つもなかった。
尼崎事故の前後、千葉ではレール破断が多発していた。それは、2001年に保線業務外注化が強行された結果であった。動労千葉はこの現実に対し、尼崎事故の前から危険箇所の速度ダウン闘争を始めていた。そこにあの事故が起きた。それで、05年から06年にかけて安全運転闘争に突入した。会社は「違法争議だ」と言って、何千人もの管理者を動員して運転台に乗り込ませて弾圧し、処分を受けながらの闘いになった。
でもそれは、乗客から圧倒的な支持を受ける闘いになり、膨大なレール交換を実現することになった。
幕張構内事故との闘い
実はその闘いの渦中で、幕張構内事故が起きた。これは、車両洗浄機のランプを入信と勘違いしてポイントを割り出し、慌ててバックさせてしまったため、丁度入区してきた列車にぶつかり、車体が傾いて洗浄機も倒してしまうという事故だった。その直前に千葉運転区で携帯使用で解雇されるという事態が起きていた直後でもあり、本社では直ちに「解雇」の声があがる状況であった。
動労千葉は組織をあげて立ち向かうことを決断した。職場の労働安全衛生委員会で以前から事故箇所にATSを設置するよう求めていたことを会社が議事録から消していたことや、現場管理者が「一通告・一作業」を全く指導していなかったこと等を暴きだして、当該運転士を守りぬいた。
ここに挙げたのは、長い闘いのごく一部だけだ。でも、こうした反合・運転保安闘争が動労千葉の原点であり、団結の源泉だ。そしてその闘いは、反合理化闘争の新たな地平を切り開くものであった。これからもその原点が変わることはない。闘いなくして安全なし! 当該運転士への事故責任転嫁粉砕! 万人は一人のために、一人は万人のために! 40年間誇り高く団結を守りぬいた組合員各位に心から敬意を表します。本当にご苦労様でした。そして一歩前へ、新たな闘いへ!
動労千葉結成40周年記念レセプションに集まろう!
尼崎事故の前後、千葉ではレール破断が多発していた。それは、2001年に保線業務外注化が強行された結果であった。動労千葉はこの現実に対し、尼崎事故の前から危険箇所の速度ダウン闘争を始めていた。そこにあの事故が起きた。それで、05年から06年にかけて安全運転闘争に突入した。会社は「違法争議だ」と言って、何千人もの管理者を動員して運転台に乗り込ませて弾圧し、処分を受けながらの闘いになった。
でもそれは、乗客から圧倒的な支持を受ける闘いになり、膨大なレール交換を実現することになった。
幕張構内事故との闘い
実はその闘いの渦中で、幕張構内事故が起きた。これは、車両洗浄機のランプを入信と勘違いしてポイントを割り出し、慌ててバックさせてしまったため、丁度入区してきた列車にぶつかり、車体が傾いて洗浄機も倒してしまうという事故だった。その直前に千葉運転区で携帯使用で解雇されるという事態が起きていた直後でもあり、本社では直ちに「解雇」の声があがる状況であった。
動労千葉は組織をあげて立ち向かうことを決断した。職場の労働安全衛生委員会で以前から事故箇所にATSを設置するよう求めていたことを会社が議事録から消していたことや、現場管理者が「一通告・一作業」を全く指導していなかったこと等を暴きだして、当該運転士を守りぬいた。
ここに挙げたのは、長い闘いのごく一部だけだ。でも、こうした反合・運転保安闘争が動労千葉の原点であり、団結の源泉だ。そしてその闘いは、反合理化闘争の新たな地平を切り開くものであった。これからもその原点が変わることはない。闘いなくして安全なし! 当該運転士への事故責任転嫁粉砕! 万人は一人のために、一人は万人のために! 40年間誇り高く団結を守りぬいた組合員各位に心から敬意を表します。本当にご苦労様でした。そして一歩前へ、新たな闘いへ!
動労千葉結成40周年記念レセプションに集まろう!
日時:4月7日(日)12時30分ニュースへのリンク
場所:千葉市 ホテルプラザ菜の花
外房線・本千葉駅 徒歩3分 モノレール「県庁前」駅横