2018年10月16日火曜日

実行委員会ニュース(第3号)

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「働き方改革」との闘いを
裁量労働制と金銭解雇法案を許すな!
講演録「働き方を変える 過労死遺族の思い」

 東京中部ユニオンの主催で9月16日に東京都内で開催された「過労死家族のお話を聞く会」での中原のり子さん(東京過労死を考える家族の会)の講演録要旨です。中原さんのご厚意により事務局で講演録を作成させて いただきました。11・4集会に向けた職場資料としてご活用下さい。

『働き方を変える過労死遺族の思い』
東京過労死を考える家族の会 中原のり子さん

 東京・過労死を考える家族の会の中原のり子と申します。過労死遺族に会うこともめったにないと思うのですが、人ごとではなく、過労死は人災です。社会的な殺人だと思っています。
 夫、中原利郎は小学生の時から小学校の先生か小児科医が夢でした。そんな彼が19年前の1999年8月、勤務する病院の屋上から投身自殺をしました。享年44歳でした。
 ちょうど病院の部長職に就いて半年後の出来事でした。なぜ彼がそんな死に方を選んだのか、私は理解できませんでした。怒りや悲しみ、混乱の中で執務机にあった3枚の便箋を受け取りました。
 『少子化と経営効率のはざまで』というタイトルでした。そこに彼の悩みは書かれていません。「医療費抑制政策」「病院経営の逼迫」「小児科の不採算」「経営効率が悪い小児科の閉鎖」「診療報酬制度の問題点」「小児科の構造的不採算」――私は、小児科がこんなに厳しいことを、夫が死ぬまで知りませんでした。
 総合病院の中で小児科は一番のお荷物だそうです。小児科は特有で、大人なら薬1錠で済むのが、子どもはシロップ剤や粉薬にしたり、非常に気を使う。大人なら1錠を使えばその点数が入るけれども、小児科は大人の10分の1しか計算してもらえない。2~3人がかりで泣き叫ぶ子どもを採血したりCTを取っても、検査分の点数計算しか得られない。
 レポートにはそんなことが書いてありました。夫はいつも事務長から「ベッドの稼働率を上げて下さい」「もっと売り上げに貢献を」とハッパをかけられる状況でした。
 レポートには、頻回の当直による疲労の蓄積が医療ミスにつながるのではないかと書かれていました。それと、女性医師の増加で結婚・出産に伴って他の医師の負担が大きくなると書かれています。
 夫が勤務していた病院には6人の小児科医がおり、男性は彼1人、女性5人の小児科医がいました。19年前、小児科学会では4分の1が女性医師でした。今は3分の1。東京医大の入試問題のように、女子学生は足切りされ、女性が医学部に入れないシステムになっている。
 彼は、その少ない女性医師と組んで医療に当たっていた。その5人の女性医師の1人の60代の先生が定年退職になった。50代の独身の女性医師は月に4回以上の当直をしていたが、50歳を過ぎて「もうこれ以上の当直はできません」と臨床現場を離れて教育現場に異動された。
 3人目の先生は産休を取っていた。夫が小児科部長になるタイミングで彼女は現場復帰するつもりだったけれども、夫が「できるだけお子さんと一緒に」と日勤だけの夜勤がない復帰の稟議書を準備していました。夫が亡くなった後、それがそのまま出てきたので病院は受け取っていなかった。ようするに稟議書を出せる雰囲気もなく、病院側としては「当直もできない医者はいらない」と、その3人目の先生も退職届けを出さざるを得ない状況でした。
 その先生は辞める時、「小児科医なんてリストラか過労死ね」の言葉を残して病院を去りました。その数か月後に夫は過労死した。彼の当直は8回に膨れ上がっていました。
 本当は、5人の女性医師たちが働き続けられる医療労働現場であれば、夫は死ななくても済んだんです。
私は、夫のメッセージを世の中の人に伝えるために、「夫は仕事が原因で死んだ」と労働基準監督署に駆け込みました。しかし労基署から戻ってきたのは不支給の決定です。担当者から「医師の当直は労働には当たらない。中原先生は長時間労働でも過重労働でもない」と言われた。
 私には意味がわからない。そもそも電話番とか郵便物を受け取る軽微な労働しかない宿泊を当直と言う。言葉のすり替えがまかり通っている。EUの判例でも医師の待機時間は労働時間と決まっているので、日本でもきちんと医師の労働実態を国の政策が守るべきだと思います。
 07年、東京地裁に労災不認定取消訴訟を起こしました。夫が亡くなってから8年目です。ようやく東京地裁で「中原の働き方は過重労働」と、行政の判断を取り消した原告勝訴となりました。国は控訴せず、14日後の3月28日に判決は確定した。
 その翌日の3月29日の民事裁判は同じ東京地裁で完全敗訴でした。「当直8回といっても患者がいない時は寝ている」。そんな判決でした。
 納得できずにすぐ控訴しました。東京高裁では「中原先生は大変な仕事をしていました。でも病院は中原先生を殺すつもりで仕事をさせていたわけではない」として〝予見可能性〟という言葉を使い、お咎めなし。好きで当直を8回やっていた、と。
 こんな判決に残されたら、すべての過労死裁判で原告が不利になると思って最高裁に上告しました。1年半後、和解勧告がきました。和解金が600万円で、私は和解を受けないと思いました。ただ裁判所から「わが国におけるより良い医療を実現する観点から双方に和解における解決を勧告した」という言葉をいただいたので、「よし、これで医療者の労働環境を改善するスタート地点に立てた」と思いました。最高裁は年間5千件の個人訴訟があっても和解勧告は1、2件だそうです。地裁、高裁と敗訴で最高裁から和解が出たのは初めてのケースです。
 なぜこういうことが起こったか。私は最初から名前も顔も公表して多くの支援者と一緒に、全国の小児科の先生に命を救われたという患者さんや家族、「明日は我が身。一歩違えば自分も中原先生みたいになっていた」という医師など、たくさんの支援者がこの最高裁の和解に持っていった。
 私は、労働組合の前で話をするときには、非力な遺族は何もできない。友だちや仲間に支えられて最高裁の和解までこぎつけた。1人の力ではできないことも、みんなの力があれば奇跡的なことが起きることを皆さんに伝えたい。どうかダメだと思わないでください。私たちには明日があります。仲間がいます。奇跡は起こすものだって思います。
国会で「働き方改革一括法案」が強行採決される一部始終をずっと見守っていました。傍聴者は反対の声もあげられない。もう数の力で決まっている。それでも私たち家族の会はあきらめきれずに毎日国会に足を運びました。
 その時に気づきました。高プロ制度は労働者の未来を奪う働かせ方。私の夫は高プロ制度の先取りの働き方で死んだ、と。私たち過労死遺族は過労死推進法と呼んでいます。過労死という言葉が出てきたのが30年前です。ツナミとカローシは日本発の世界共通語なんです。長時間残業、サービス残業の蔓延、残業に対する労働組合の規制の力の弱さ。過労死・過労自殺の多発、これが日本的働きすぎの特徴ではないでしょうか。
 闘いが必要だと思います。高プロ制度を導入しない、させない、同意しない。3ない運動です。労働組合の人たちにもがんばってほしい。過労死家族の会もがんばります。

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