2017年4月26日水曜日

日刊動労千葉 第8274号

国鉄分割・民営化30年 ④
動労千葉の団結は いかにつくられたか

 今から10年前の2007年1月16日、DC会館で開催された「館山運転区、木更津支区廃止反対総決起集会」での、故水野正美・元副委員長の講演《「日刊動労千葉」6406号》を再度掲載します。

http://doro-chiba.org/nikkan_tag/8274/

(写真)講演する故水野正美元動労千葉副委員長

動労千葉の原点は

 動労千葉の原点・教訓ということについては、中野顧問が「俺達は鉄路に生きる2」のなかで述べきっているので、私は、私なりにあの時代をともに闘った者として、思いつくままに述べてみたいと思います。
 私は動労千葉の原点は、1973年の千葉地本勝浦大会にあると思っています。方針は決まったが、新執行部がなかなか決まらず、会場を追い出され、勝浦の海岸の断崖絶壁で続開大会を行って関川委員長─中野書記長体制が選出された。動労千葉は本質的にここで産声をあげた。
 三里塚─ジェット闘争を闘いながら分離・独立をするまでの過程は、動労革マルとの路線をめぐる熾烈な闘いがあった。われわれは攻撃の矢面にたっていた青年部と行動をともにしようと決めた。本部の大会や会議に行けば、一人を何十人もが取り囲み、陰惨・卑劣なテロ・リンチにあう。こちらが発言すれば、ヤジと 怒号でほとんど聞き取れない。そういう状況だったけれど、われわれも負けていなかった。帰ってくるときは「次はみてろよ」と意気軒昂としていた、そんな闘 いの日々だった。
 当時、新採で結集してきた皆さんが今ここにいて動労千葉を立派に背負っている姿をみて非常に心強く思っています。

分離・独立から分割・民営化反対闘争へ

 そして、動労本部の大裏切りが明らかになった「三里塚闘争と一線を画する」「貨物安定宣言」を宣言した1978年動労津山大会、そして千葉地本三役の査問委員会設置を強行した動労101回定中を経て、独立の決意を固めた。
 こうした過程も、動労千葉は本部が何を言っているのか、われわれが何を主張しているのか、組合員に全部傍聴させて自分の目で見させてきた。だから執行部 も大方の組合員も独立しようという雰囲気が高まっていた。
 しかし、中野はなかなかうんと言わない。全組合員が「もう独立して自分たちの組織をつくろう」と いい出すまで待っていた。それが揺るぎないものになったとき、「よしやろう」と。
 だから1979年3月、「動労の戦闘的精神を継承するのはわれわれだ」と独立したときは、電光石火のごとく手を打った。
 そして、1985年~87年にかけて分割・民営化反対闘争での2波のストライキで28名、清算事業団12名という計440の解雇者を抱えるという激しい闘いをしながらも動労千葉は国労のようにバラバラにされなかった。解雇者の苦労、痛みを伴ったけれども団結を崩さなかった。
 支部の役員が「自分はクビになるかもしれないけど組織は残すんだ」と、クビになった時のために自動車免許を取った者が何人もいたことをあとで知った。

動労千葉の強さは路線の正義性


 「動労千葉は義理と人情で、仲間意識が強い」とよくいわれるが、当局はこれを「風土が悪い」といった。「ヨコの意識が強すぎて、タテ の指揮命令系統が貫徹できない」という意味だそうだ。
 しかし、それは一面で動労千葉の本当の強さは、路線の正義性だ。そのことにもっと自信を持ってほしい。
 私も現職を離れて10余年、ずっと動労千葉の闘いをみているが、動労千葉は路線にブレがない。きちんとした路線を組み立てて、そこに組合員が団結して 闘っている。
 中野はよく「人は理屈だけじゃ動かない。だけど理論がないと運動にならない」といった。だから当時私たちは、組合員が何を考えているか、どう 受け止めているかをよく注視した。その前提として、敵がどういう攻撃をかけてくるか、どういったことがこれから起こるかということを全部組合員に話し、納得してもらうことが基本だった。そして、ひとつひとつのことを大事にしてやろう、中途半端にあれもこれもやるのはやめようと決め、その成果をバネに次の闘いに進んでいった。
 この過程は、いろいろ悩み激論もした。だけど、こうと決めた時には一斉にまとまって行動してきた。路線を確立するために、組合員が討論に参加し、ともにつくってきた。誰かの思いつきや指令じゃない、組合員と討論し、納得したら全員で行動する、これが動労千葉の歴史であり、これをぜひ継承 していってほしい。私は、その動労千葉の一員としてあることを誇りに思っています。

指導部をつくるのは組合員の力

 これから動労千葉の指導部を担う人に心にとめておいてほしいことは指導的責任を十分自覚してやっていくということ。中野は命令しな かった。いつも聞き役であり、しゃべり役だった。これからどうなるか状況を話し、組合員がどう思うか、何を言うかじっと聞いている。そして議論を煮詰めて 執行委員会としての方針を形成していく。これはなかなか難しいこと。指導部をつくるのは、組合員の力だ。指導者はひとりでに生まれてくるものじゃない。歴史的産物だと私は思う。あの時代の、あの厳しい闘いが、自分も含め組合員が、中野という指導者をつくってきた。
 勝浦運転区廃止のとき、敵の「職場をつぶせばなんとかなる」という組織破壊攻撃に対して、ストライキを闘って、その間に鴨川運輸区での拠点をつくるため に鴨川支部を結成し、そとぼう地域協議会をつくってそれを支えた。これからの闘う体制をつくってそれぞれの任地に赴き、次の闘いの芽をつくっていく。一時的に職場はなくなるかもしれないが、闘いの拠点はなくならない。われわれの組織─闘いはそういうへこたれない強靱さをもっている。これからの皆さんの闘いに心から期待する。